長岡遠征報告 平成16年8月2日(月)〜3日(日) |
長岡遠征2日目については服部武雄が報告いたします。藤堂さんのクレセントな文章とはうって変わり、 いつもの乗りの乱雑な文章になってしまうかもしれませんがご容赦ください。 |
第2日目:8月3日(火) 【悠久山公園(長岡市郷土資料館)】 第2日目の午前中は、長岡駅南方の広大な敷地にある悠久山公園と長岡市郷土資料館を見学しました。 この公園、元々は長岡藩9代藩主牧野忠精が造営した「蒼紫神社」を長岡開府300周年の大正8年に公園化したものです。 園内には河合継之助、山本帯刀、小林虎三郎等長岡藩ゆかりの人々の碑が立ち並んでいました。 そして公園の高台にそびえる天守閣の形をした建物が長岡市郷土資料館です。 館内には長岡に関する資料、歴代長岡藩主、河合継之助、小林虎三郎、山本五十六等に関する資料が多数展示されていました。 それから河合継之助の名前をここまで全国区にしたといっていい、司馬遼太郎の『峠』の生原稿が・・・ファン必見です! 【河合継之助のことなど】 さて悠久山公園を後にした一行は河合継之助記念館へと向かいました。 ところで河合継之助記念館ってどこにあると思います? 実は長岡市内にあるのではなく、福島県の只見町にあるのです。 この地は「長岡の蒼龍」河合継之助の終焉の地であるのですが、なぜこの地で河合継之助が亡くなったのかを書くこととします。 慶応4年 5月19日:[新政府軍による長岡城の急襲] 榎峠、朝日山の攻防で敗退した新政府軍は作戦を変更、信濃川渡河を強行して長岡城へ強襲をかける。 朝日山方面に兵力が集中していたため手薄になっていた長岡城下は新政府軍に席巻され、長岡城も落城。 藩主牧野忠訓は会津へ落ち延び、継之助も栃尾へ撤退する。 6月2日:[今町奪回戦] 山本帯刀率いる陽動部隊による牽制攻撃で敵を引きつけておき、河合継之助率いる主力部隊が今町へ突入、見事に今町を奪回する。 7月24日〜25日[八丁沖渡河作戦、長岡城奪還戦] 24日夜、長岡城の東北部に広がっていた大沼地帯の八丁沖渡河作戦を決行、25日未明に渡河に成功すると長岡城へ攻め込み、 長岡城奪還に成功。 しかし、残敵との交戦中に継之助の足を銃弾が貫き重傷を負う。 7月29日[再び落城] 兵力を増強した新政府軍は再び信濃川を渡って長岡城へ攻撃、ついに長岡城は2度目の落城をする。 8月16日[継之助没する] 長岡城から落ち延びた長岡藩士達は越後‐会津国境の「八十里越」を抜けて会津へ向かう。 継之助もこの山間部の悪路を越えて会津藩領まで来たが、足の銃創が悪化し、会津塩沢村(現只見町)で没した。(享年42歳) 長岡市を出た一行は車で河合継之助が通った「八十里越」を越えて只見町に向かいます。 愛車インテグラを颯爽と駆り、ワインディングロードを2時間に渡って走行。 しかし助手席が加納じゃ・・・(哀) 【河合継之助記念館】 ついに着きました河合継之助記念館! 山間部にある本記念館は建物も新しく綺麗で、館内では河合継之助の生涯がパネルや解説テープで分かるように配慮されている すばらしい記念館でした。 そしてなんといっても見物だったのは復元された「ガトリング砲」。 ガトリング砲とは南北戦争中に米国で開発された世界最初の機関銃で、 1分間に200発もの弾丸を発射できる世界最強の兵器でした。 当時日本には3門しか輸入されていませんでしたが、継之助はそのうち2門を購入、 長岡城攻防戦では自ら射手として新政府軍相手に乱射したと伝わります。 (ちなみに3門のうち残りの1門は薩摩が所有していたといわれ、宮古湾海戦の折に「甲鉄」につまれていたともいわれています) それからもう1つ、継之助は当地の医師矢沢宗篇宅で息を引き取りますが、 当記念館には矢沢家の「継之助終焉の間」が移築されています。 遠く故郷長岡を離れ、山間のさびしい民家で最期の時を迎えることとなった彼の心境はどのようなものだったのでしょうか。 【そして東京へ】 さてさて2日間に渡った長岡遠征もいよいよ全行程が終了し、後は東京へ帰るのみとなりました。 記念館を拝観した後、会津方面へ向かった局長一家とは別れて再び新潟‐福島県境を越えて越後川口に出ると、 あとは関越自動車道にて東京へと戻りました。 2日間という短い行程でしたが、非常に勉強になった遠征だったと思います。 またいつか「東日本一の花火大会」を観に来たいですね。 追記 10月23日の新潟県中越地震で被災された皆様に心からお見舞い申し上げますと共に、 一日も早い復興をお祈りいたします。 特に、長岡市に関しましては「米百俵まつり実行委員会」の皆様を始めとした多くの方々には日頃から大変お世話になり、 また、今回の遠征時では、小千谷市の慈眼寺のご住職様始め、多くの皆様にお世話になったばかりだっただけに 発生直後の衝撃は言葉では言いつくせないほどでした。 山河の美しい、静かで穏やかな景色や出会った方々のお顔がいまだに鮮やかに思い出される中、 テレビなどで目にする映像には本当に胸がつまる思いです。 今年の「長岡まつり」は、その前月に発生した水害で多大な被害を受けた直後でもあり、開催自体も自粛してはとの意見もある中、 こんなに辛く大変な時だからこそ、全員が希望を持ち、前に進めるように、前身でもある「長岡市戦災復興祭」の意義を忘れまいと 開催を決意なされたと、お伺い致しました。 このたびの地震でも多くの尊い人命が失われ、今もなお、多くの皆様が避難生活を続けていらっしゃいます。 長岡空襲から見事に復興を遂げた長岡市のように、またあの美しい景色を、平和な日々を、取り戻す日が一日も早く訪れますように、と 願わずに入られません。 会津藩を救う為に結成された奥羽列藩同盟。 その「救いたい」という純粋な思いは、現代では、日本中で今もなお広がり続けています。 私達も、自分達にできることか何かを問いかけながら、できる範囲でのことをしていきたいと思っております。 そして、来年の夏の夜空にあの美しくも力強い大輪の花火が咲くことを、 被災された皆様に一日も早く心からの笑顔が戻りますことを、心より願っております。 ▼8月2日へ戻る← 【報告者:服部武雄・藤堂平助】 |
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