長岡遠征報告 平成16年8月2日(月)〜3日(日) | |
8月1日(日)〜3日(火)にかけて新潟県長岡市で開催された「長岡まつり」に合わせて行われた長岡遠征の報告です。 遠征メンバーは、局長御一家と、服部武雄、新井波摩男、加納惣三郎、藤堂平助という顔ぶれでした。 ちなみに、これは途中のSAから見た風景です。→日本一の大河、信濃川のゆったりとした姿と晴れ渡った青空の下、 (猛暑の下、でもありました…)行われた遠征の模様をご覧ください。 |
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第1日目:8月2日(月) 【慈眼寺(小千谷市)】 午前中は、小千谷市の慈眼寺(河井継之助・岩村精一郎談判の間)、朝日山古戦場(北越戦争緒戦の激戦地)を見学。 小千谷は会津藩の飛地で小千谷陣屋があり、西軍は雪峠・芋坂の会津軍と幕府脱走軍の衝鋒隊を破り小千谷に進出、 本営を設けていた場所です。 「小千谷会談」の場となった慈眼寺は、隣接する幼稚園から聞こえる子供達の元気な声と蝉の声とが響く空間にありました。 中へ入ると、ひんやりとした静寂な空気が漂い、外の賑やかさが嘘のような印象を受けました。 ご住職様はこれからお経をあげる直前でいらしたのにも関わらず、貴重なお時間を割いて説明してくださったばかりか、 せっかくですから、と会談の席上二人が座ったとされる席を勧めてくださり、加納君が岩村さん席(写真奥側)に、 新井さんが河井さん席(写真手前側)に正座してお話を伺いました。 一番印象深かったのは、河井継之助・岩村精一郎の談判が決裂した要因を、 ご自身の戦争時の実体験を基にして感じた事ではありますが、と、前置きなさった上で、 若干23歳でいきなり大部隊を任された岩村さんの心情をあくまでも推測ですが、とおっしゃりながらも お話しくださった内容でした。 岩村さんには、個人的な印象で恐縮ですが「傲慢」というような印象が正直強かったのですが、 見方ががらりと変わってしまった程、とても心に残るお話でした。 続いて、河井継之助・岩村精一郎による解説テープを拝聴後、戦死した薩摩藩の方々の戒名が刻まれた位牌に 香華を手向けさせていただいてから、室内をゆっくり拝見させていただきました。 この部屋で130余年前に、長岡藩の命運を賭けた「小千谷会談」が行われたのかと思うと感慨深いものがありました。 ものの30分もしない程の短い時間で、河井の懇願も空しく岩村がこれを拒絶、 席を立ったことで決裂したと伝えられる「小千谷会談」。この後、3ヶ月にも及ぶ北越戦争へと突入、多くの人命を失いました。 河井は、部屋から出る岩村の袴の裾をとって再度の懇願をしたといわれ、この後も岩村との面会を求め、 深夜まで附近を徘徊していたと伝えられているそうですが、 長岡藩の全てを背負っていた河井の心情はいかばかりであったことでしょう。 静寂な空気の漂う室内には、遥かな時を経ても尚、河井継之助の必死な思いが感じ取れるような気がしました。 |
【慈眼寺 御本堂外観】 【小千谷会談謁見の間】 【謁見の間 左/右】 |
【朝日山古戦場】 慈眼寺を後にして、同市内にある朝日山の山頂にある朝日山古戦場 (北越戦争緒戦の激戦地。小千谷市指定文化財)を目指しました。 朝日山は広大な「長岡・東山・山本山県立自然公園」内の小千谷市浦柄町にあり、長岡市との境になります。 「小千谷談判」の決裂に端を発し征討軍と奥羽列藩同盟軍の死闘の舞台となったのが朝日山古戦場です。 日本一の長江、雄大な信濃川を渡り、目指す目的地、朝日山の麓を入って小さな駐車場に車を止め、 目の前の上り坂を登りきると、小さな祠と「戊辰戦蹟記念碑 海軍中将山本五十六書」と刻まれた石碑があり、 更に祠の右奥の短い坂を上がると「朝日山殉難者墓碑」がありました。 朝日山を巡る攻防戦の後には、会津・桑名・長岡の各藩兵、衝鋒隊の、東軍兵士の遺体が残され、 明治政府は遺体の取り片付けを厳しく禁じ、遺体は朝日山の各所に朽ち果てるままとなり、 これを見た地元の人々が墓標を立て、遺体を手厚く葬ると共に22基の石碑を建立し英霊を弔いました。 この中には、会津藩白虎隊士新国英之助(16歳)がおり、父親が戦後20数年を経て、 その遺体を探し当て建立した墓碑なのだそうです。 22基の石碑が並ぶその上の高台には、最近立てられたばかりの1本の若木と、 その横に鶴ケ城吉野と書かれた白い木が立てられていました。故郷の会津若松から遠く離れて眠る彼らに、 せめて心の拠り所でもあったであろう鶴ケ城の側で眠らせてあげたいという思いからでしょうか。 蝉の声だけが響く、人気のない静寂な山の中で静かに眠り続ける石碑に手を合わせて冥福を祈り、その場を跡にしました。 再び、車で更に頂上を目指したのですが、行きも帰りも、緑の茂る道端などのそこかしこに 「東軍兵士之墓(兵士戦死の場所)」と書かれた小さな看板が数多くあり、当時のことが偲ばれ、 改めて通り過ぎながら心の中で手を合わせました。 やっとたどりつき、信濃川を一望できる高台に上り、改めてその展望のすばらしさに一同絶賛するも、 やはり緑が生い茂るここにも東軍兵士之墓という看板があり、改めて戦場であった事を思いだしました。 頂上にある建物の中には、朝日山古戦場に関する資料が陳列してありました。 建物の反対側には、第一堡塁の跡という看板があり、そこから80mほど先は、 西軍、奇兵隊長の時山直八が戦死した場所だそうです。 当時は、遺体を収容するいとまさえない程の激戦で、西軍兵士は時山の首級だけを携えて総退却し、 北陸道先鋒総督府の参謀であった山縣狂介(有朋)は首級と対面、落涙したと言われています。 新政府軍、旧幕府軍、どちらにも、多くの尊い命が失われ、その分だけの涙が流されたのだと、 時山直八の戦死した辺りと思われる辺りに手を合わせました。 また、建物の裏手にはフランス兵法による塹壕跡という看板があり、一目でそれと判るもので、 当時の様子を窺い知れる雰囲気がありました。 車で登るにも急勾配で道も狭く、観光地とはなりがたい場所であった事もあり、 当時の様子が色濃く窺い知れる雰囲気が随所に残っていて、史跡として見学するには最高の環境だと思いました。 山のあちこちに点在する東軍兵士の墓は遺体がその場所に放置されていた証ですし、また、慈眼寺に置かれていた、 戦死した薩摩藩士達の位牌にしても、故郷の薩摩から遠く離れた越後・長岡で帰らぬ人となったという事で、 敵味方に関わらず、嘆き悲しんだ親兄弟もいたことであろうと思いを巡らせると、胸が痛くなりました。 改めて、戦争というものの惨さ、無意味さをも認識し直した史跡めぐりでした。 ただ、行くには、車か、もしくは根性と体力が必要かもしれません…。この朝日山古戦場の史跡めぐり敢行は、服部さんの愛車と 運転技術がなければ、とても時間内には登り切れないほどのハードなものでしたので(苦笑) さて、朝日山を降り、一路、長岡市内へと向い、駅に到着。用意していただいたお昼をいただいた後、 長岡まつりで賑わう大手通りなどで、新選組フェスタPRチラシを配布しながら、日野をPR。 日野や近隣の出身だという方から声をかけていただき、驚くやら嬉しいやら。 炎天下の下「米百表まつり実行委員会」の皆様にもお手伝いいただき、 汗だくになりつつも任務を無事完了することができました。 その後、まちなか花火ミュージアムで、日本初の3Dバーチャルによる「長岡まつり大花火大会」花火を見学。 余談ですが、長岡まつりの前身は長岡空襲後の「復興祭」です。 太平洋戦争末期の昭和20年8月1日、B29による攻撃を受け、旧市街地の大半を焼かれ、尊い1460余人の命が消えました。 長岡市では1年後の昭和21年8月1日に「長岡市戦災復興祭」を開催、これが市民の共感を得て年々盛んになり 「長岡まつり」と名を変え、現在に至っています。 |
【戊辰戦蹟記念碑】 【左・記念碑/右・墓碑の上に立つ鶴ケ城の文字】 【朝日山殉難者墓碑】 【朝日山からの眺望】 【東軍兵士之墓】 【資料室】 【時山直八・戦死の場】 【塹壕跡】 |
続けて、怒涛の勢いで、徒歩で長興寺、栄涼寺、河井継之助邸跡、長岡城跡と、市内の史跡巡りを敢行。 長興寺では、山本五十六、酒井晦堂の墓にお参りしました。 朝日山にあった戊辰戦蹟記念碑の文字を書いた山本五十六は、太平洋戦争海戦時に連合艦隊司令長官だった人物です。 旧長岡藩士高野家から長岡藩家老職「山本家」の名跡を継ぎ、旧会津藩士の女性と結婚しています。 航空に早くから注目、その重要性を力説し、太平洋戦争開戦時にその先見性を世界に実証したものの、開戦にはあくまでも反対で 「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」と、わが身の危険を省みず、日独伊三国同盟に断固反対、 日米開戦にも反対していたにもかかわらず、その意に反して連合艦隊司令長官として未曽有の大戦争の指揮をとらざるを得なくなり、 昭和18年4月18日、一式陸上攻撃機に乗り前線視察中に、米国の戦闘機の待ち伏せにあいブーゲンビル島で散華しました。 長岡が多数の犠牲者が出た、米軍による猛爆撃を受けたのも、連合艦隊司令長官の山本五十六の故郷だった為だと言われています。 酒井晦堂は、長岡藩校崇徳館の造士寮長で、豊かな才に恵まれながらも、 奥羽列藩同盟による戦には断固反対をしたものの、 結局戦となってからは悲しみつつも死を覚悟して戦地へ赴き四十歳で戦死した人物です。 栄涼寺では、河井継之助の墓と、歴代の長岡藩主牧野家の墓にお参りしました。 河井継之助、酒井晦堂、山本五十六、それぞれに、戦を避けたいと言う気持ちがありながらも、 それと逆の道を歩まねばならなかったその生き様を思うと、何ともやりきれない気持ちになりました。 続けて、河井継之助邸跡へ。 ビルなどの建つ後ろ側に、公園のように整備された空間に、大きな木のそびえたつ緑豊かなその一角は、 戊辰戦争後、継之助の両親と奥さんが焼け跡に小さな家を建てて住んでいたそうで、 その後再建された家も老朽化が激しく取り壊されてしまったそうですが、 現存する庭は継之助の頃のままだと言われているそうです。 敷地の片隅に、継之助の家紋「丸に剣酢漿草」に由来するカタバミが植えられていました。 最後に長岡城跡を見学。町の中心地、大通り沿いにあり、周囲は祭りの喧騒に包まれていましたが、 大きな木が枝葉を広げ守ろうとしているかのような、長岡城二の丸跡である場に立つと、 不思議と周囲の喧騒が感じられませんでした。 無事に史跡めぐりを終えることが出来た感謝も込めながら手を合わせました。 時間の都合上、今回は、残念ながら八丁沖古戦場跡(長岡城奪還戦の激戦地)は見学できませんでしたが、 次の機会には是非行ってみたいと思います。 その後、日帰り組の新井・藤堂は悔し涙を飲んで、日本一の大河信濃川を舞台に繰り広げられる大型花火の競演、 長岡まつり大花火大会の観覧を諦め、帰途に着きました。 ▼8月3日へ行く→ |
【山本五十六の墓】 【河井継之助の墓】 【長岡藩主牧野家の墓】 【河井継之助邸跡】 【長岡城二の丸跡】 |
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