■内  容
 ■高幡不動尊編
 ■石田寺編
 ■とうかんの森編
 ■土方資料館編
 ■日野館編
 ■源さん生家編
  ・沖田キンさんの机
 ■八坂神社編
 ■宝泉寺編
第4回日野市新選組史跡めぐり報告
平成15年 3月 2日(日)
案内・説明は、前日野市教育委員長 古谷洋太先生
この日は朝から鮮やかな青が目に眩しい快晴に恵まれた一日となった。風は非常に強かったものの、 歳三達からの粋な計らいかとも思える程、前夜からの悪天候が嘘のように青く澄み渡った爽やかな青空のもと、 行われた史跡めぐり報告をご覧ください。
■高幡不動尊編
 今回の史跡めぐりは、土方歳三の菩提寺である高幡不動尊(真言宗智山派、高幡山金剛寺)から始まった。
 仁王門をくぐった左手、弁天池の側にある「土方歳三の像」。なんとこの日は、春の火災予防運動期間?だったからか、 我らが土方副長は春の火災予防運動推進の魁たらんとするかの如く、目にも眩しい白い襷をかけ(られて?)、凛々しくも涼やかな 眼差しでたっていた。(歳さんに掛けようと思い立った方、ツワモノです・・・・) 火の用心、平素から気をつけろよ!という鬼副長の戒めの御声が聞こえ…はしなかったが(笑) 皆様、くれぐれも火の元にはご注意を。
 その、歳さんの像の隣に並ぶのが「殉節両雄の碑」。
 明治7年8月に慰霊のための墓碑建立が許可された後、佐藤俊正(彦五郎)を始めとする日野の有志が発起し、 同9年には建立の準備が整ったものの、近藤・土方両雄の事績の顕彰が主たる目的であった為か、建立の許可がなかなか下りず、 建立は明治21年7月。更に当時は今現在のように人目につきやすい位置ではなく、もっと奥、松の木の下辺りにあった。 賊軍とされていた彼らの顕彰碑建立を明治政府が渋々ながらも許可したのは、近藤・土方の良き理解者であった、 元幕府典医頭、初代陸軍軍医総監、正五位勲二等の松本順(良順)がいた故。
 石碑の文章を見ていくと、途中、空白がある部分を幾つか目にする。これは、朝廷・天皇陛下を意味する「朝」或いは 天皇陛下がおっしゃられた御言葉である「勅」、それらの頭の上に字があっては畏れ多い為に、一字分の空白をあけている からで、手紙などでは近藤・土方らの書簡にも見られるように、天皇・朝廷といった言葉がでてくる時には行を上げ、 次の行の一番上に書いてある。

○奥殿の説明は、高幡不動尊貫主 川澄祐勝様。
 奥殿に収蔵されている土方歳三書簡は歳三の祖母の実家の平家に伝わるもので、鳥羽伏見の戦いの少し前に書いたと言われる。 今度の戦は大きな戦いになりそうだ、もしもの事があった時には高幡のお坊様によろしく弔ってもらうように伝えておいてください、 という内容のもの。ちなみに、この平家は大変古い家で、判っているだけでも室町から、おそらくは鎌倉時代からの旧家であろうと 推察されるとのこと。
 また、平家から納められた新選組に関係するものとしては、榎本武揚・大鳥圭介・山岡鉄舟ら多くの人々の書などが展示されている。 明治12年、平家の方が榎本武揚や大鳥圭介を訪ね、「歳三の親戚なのですが一筆お願いできますか」というと、皆気持ちよく書いて くれたそうである。中でも榎本武揚はすぐに書いてくれ、記念撮影もしてくれたという。

●こぼれ話 其の壱 歳三とぼたもち事件
 歳三達が甲陽鎮撫隊を率いて行く途中で日野へ立ち寄り、佐藤彦五郎の家で休憩した時の事。歳三の姿がふいと見えなくなった。 何処へ行ったかと思いきや、歳三は平家へ祖母を訪ね「お久しぶりです、歳三です」と挨拶しに行っていたのである。 喜んだ祖母に「よく来たな。子供の頃お前が好きだったぼたもちを作ってやるから、ちょっと待っていろ」と言われた歳三、 「忙しくてそれは無理だ、待てない」と断った。すると祖母は「これから戦争に行くっていうのに、そんなにソワソワしていて勝てるか」 と言い放ち、ぼたもちが出来るまで歳三を待たせたと言う。
 肉親とのやりとりが、何だかちょっとほほえましいエピソード。歳三の立場としてみれば、実際は確かにそんな気持ちには 中々なれないだろうと思うのだが、さすが歳三のお祖母様。江戸の女は強し。更に祖母は強かった。ああズバッと切り替えされては、 歳三としても逆らえず、じっと待ち続けるしかなかったのだろうが、一体どんな顔をしながら甘いぼたもちを食べたのだろうと 想像すると、非常に緊迫した状態にあった彼には大変申し訳ないが、くすっと笑いたくなるのは私だけだろうか。

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歳さんの拡大写真はこちらから
■石田寺編
 土方家の菩提寺は、高幡不動尊(真言宗智山派、高幡山金剛寺)であり、石田寺は正式には墓檀家といい、 墓だけをお願いしている形で、歳三の戒名が記された過去帳や位牌は高幡不動尊にある。
 土方家の墓がある石田寺は、鳥の囀りが聞こえてくる閑静な住宅街の一角にある。石田寺へ行く道すがら、幾度となく 梅の木のあるお宅を見かけた。ふと、何とはなしに、歳三が幼少の頃の昔からこの近隣には梅が多くあったものであろうかと思い、 もしそうであるならば、歳三がとりわけ梅の花を好んだ要因でもあろうか、とも思われた。
 石田寺の山門脇から境内へ足を踏み入れると、手前に六地蔵が目に入る。そのななめ左前方に日野市天然記念物に 指定されている樹齢600年のカヤの木が大きく天に向け枝葉を広げている。幼い頃の歳三も幾度となくこの木を 仰ぎ見たのであろうかと思いをはせる人も多いことだろう。そのカヤの木の横には明治百年を記念して建てられた 土方歳三義豊之碑が建ち並び、顕彰碑のななめ右前方には台風で立川方面からここまで流されてきたとされる 十一面観音像を祀った北向観音のお堂がある。
 石田寺の他にも歳三の墓は全国にいくつも点在しているが、一番先にできた墓は、明治2年5月11日に弾に当たって 戦死したと知ったすぐ後に、新選組のひいき筋であった鴻池の箱館支店である大和屋の番頭の友次郎が先頭を切って 称名寺に石塔を建てたものが、それである。その他には、同じく箱館にある「碧血碑」、旧会津藩領内にある天寧寺、 高幡不動尊(菩提寺)、板橋など。
 石田寺にある歳三の墓は土方家墓所内右端にあり、三つある戒名のうち、最も良い戒名である「歳進院殿誠山義豊大居士」が 刻まれている。お骨は納められてはいないが、それでも歳三を慕う人々の香華が絶えることはない。
 この日もちょうど東京と神奈川から来たという2人の女性が墓参していた。手際よく墓や周囲を拭き清め、 梅の花を墓前に供えていくうちに、史跡めぐりの第二陣の方々が到着。彼女たちは綺麗にし終えたばかりの墓前で、 お線香を「どうぞ」と私たちに配ってくれた。彼女達は、石田寺のご住職とも顔見知りであるようで、親しげに話をしていた。 歳三を大切に思う人と人とのこうした交流を目の当たりにして、墓参の感慨もひとしおであった。

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■とうかんの森編
 四方を住宅に囲まれている「とうかんの森」は石田寺北側に位置し、日野市指定天然記念物であり、この近くに歳三の生家が あったと記録に残っている。今現在、御子孫の方が住んでいらっしゃる家は、大洪水に見舞われた後に移った場所である。
 「とうかん」とはどういう意味合いでそう呼称されているのか。
 森の側に立てられている立て看板に「稲荷大明神」と書かれているが、「稲荷」は「いなり」の他に「とうか」とも読める。 「稲荷」の稲は「いな」の他に「とう」とも読み、「稲荷」の荷は「か」とも読むことから、 「とうか」と読まれ、更に関東では何にでも「ん」を付けたがることから、「とうかん」と呼んだものであろう、という説がある。
 「とうかんの森」には「お稲荷さんの森」という意味合いの他に、もう一つの意味があると思われる。
 この近隣に「とうかんや」と呼ばれる行事がある。これは、天から田の神様が大きな木をつたわって降りてきて、 いろいろな作物を実らせてくれ、お米の取入れが済むと、再びその木から天へ帰っていく、その日が十日の夜であることから 「とうかんや」と呼び、お餅をついたりする行事のことである。こうした意味も「とうかんの森」の名にはあるのではないかと 思われるそうである。
 では、どうして大洪水があったにも関わらずこの森が残ったのかというと、恐らくここが他よりも高くなっていて 洪水の被害があまりなかった為であると思われる。そういう高い所へこそ家は造るものであり「とうかんの森」の側に お大尽と称された歳三の家があった事は至極当然な事とも言える。
 実際に、土方家がどの辺りにあったかを推察するにあたっては、お稲荷さんと北向地蔵が大きく関わってくる。
 江戸時代に流行したものの一つにお稲荷さんが挙げられる。日野の旧家には全部お稲荷さんがあると言う。お稲荷さんを始め、 神様をお祀りする時は通常、東から南へ向いているものである。そして、この「とうかんの森」は見て判る通り、大きな木に囲まれた お稲荷さんであり、こうした森が家の東側にあったら一日中日陰になってしまう、南にあっても同様に駄目。森に対して こちら側にあれば一日中日が当たり、北風が吹きつけず、向こうにいれば朝日からずっと当たって、夏の暑い西日が当たらなくて すむ場所と言うことになると、おのずと家のあった場所が推察されよう。

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■土方歳三資料館編
 歳三が幼少時を過ごした実家の一部を土方歳三資料館として毎月第3日曜に一般公開している。この日は特別に土方陽子さんに 説明をお願いし、快諾していただいた上での実現であった。

■主な所蔵品についての説明
○鉢金
鉄製。裏には「尽忠報国志土方義豊」と銘が刻まれている。白い絹の布で巻いて歳三が額に巻いた。表側には 刀傷が七ヶ所あり、肉眼では三ヶ所確認できる。向かって右の壁にかかっているのが鉢金の送り状で、歳三直筆の書。宛先は 佐藤兄、歳三の姉ノブの夫、歳三の義兄の佐藤彦五郎にあてた書。
○新選組隊士の安富才助が歳三の戦死の状況を知らせてきた手紙
宛先が土方隼人となっているのは、土方家は代々、土方隼人○○、というように隼人を名乗るようになっている。
○歳三が実際に身に着けた鎖帷子
○豊玉発句集
○中島登の新選組の覚書
○和泉守兼定
十一代兼定の作。文化財になっている。台についている左三つ巴は土方家の家紋。抜き身の兼定を見られるのは 毎年5月の3日間だけとなっている。
○天然理心流の目録
○歳三の直筆の手紙二通
○歳三が若いときに愛用した文箱
○歳三の写真
箱館で歳三が戦死する数日前に、箱館の写真館で田本研造という方が撮影したものだと言われており、向かって左側の 写真を小姓をしていた市村鉄之助に託して届けたと聞いている。当時、賊軍として扱われていたことから、この家の人々は 歳三の母の実家である久野家へ避難していて空き家だった為、市村鉄之助は佐藤彦五郎を訪ね、そちらに歳三からの 遺品を届けたそう。
○榎本武揚の書
歳三の兄が箱館に行ったところ、大層喜んで歓待してくれ、歳三の兄が持参した地酒をちびりちびりと飲みながら、 目の前で書いてくれたもの。
○歳三のお位牌
○石田散薬
打ち身用の薬を家伝として、昭和初めまで家で作り、販売していた。原材料は牛革草という草で、秋に花が咲く。それがまだ 若芽の頃、土用の丑の日に村中総出で刈り取り陰干しする。その作業を歳三が何度か指揮をしたそう。作業の合間にお茶のみ をする時などには、歳三はとても細やかな心遣いをすることのできる優しい子であったそうで、それがあんな死に方をするとは 思いもよらなかったと言い伝えられている。
薬箱についている山丸印は土方家の印。昔は冠婚葬祭は自宅で行った為、道具類には全て印がついている。歳三はこの薬箱を 担いでよく行商に出たそうで、かなり遠くの薬屋や雑貨屋から注文が来て、配達に回ったという。
丼2つは歳三が、薬の調合に使うようにと言って京都から買ってきたもの。
瓶に入っている黒い粉末が石田散薬の実物で、京都の新選組でも常備薬として使われたよう。
○箱館の称名寺にある位牌と墓の写真
歳三の墓は全国に幾つもあるが、いずれもお骨は入っていない。歳さんのお骨を故郷に返す会、という会が福岡県の方を中心に 全国的にでき、その方々の努力が実り、函館市で調査会が設けられ、現在、調査に乗り出しているよう。 推定としては、遺骨は、ほぼ五稜郭の中の食糧倉庫の前に土饅頭という少し楕円形に盛られた土があり、 伊庭八郎と並んで埋葬されたのではないか、という説があるが、食糧倉庫の調査が先だと言うことで、 まだ調査には乗り出してはいないよう。
○箱館の若松小学校の校庭に建立された「土方歳三最後之地」の碑の写真
今現在は、区画整理で若松町に広い公園が出来、そちらに祭られている。
○新選組の袖章 23残ったとされる新選組の袖章の内の一つ。戦争の際、敵味方を区別するために左袖につけたという。
○歳三の生家の昔の写真
生家は別の場所にあり、こちらは幼年期を過ごした家。平成2年まで住んでいたが、諸事情があり建て替えられた。 記念に門柱だけは残している。現在の位置よりもっと東に歳三の生家はあったとされ、歳三が幼少の頃、多摩川の大水で 家が流されそうだというので、急遽、村中総出で解体・移動し、以後、平成2年までこの同じ場所に建っていたものと言う。
○市川米庵流の書家、本田覚庵の息子の作品
この家代々、親戚の本田家に市川米庵流の書家がおり、そこに書道を習いに行き、歳三は本田覚庵先生に教わった。 その覚庵先生の息子さんが書かれたもの。今は書家の方はいらっしゃらないが、貴重な設備で、釘を一本も使っていないという 建物はほぼ同じ形で残っている。現在もお住まいになっておられ、今もお付き合いが続いている。
○外にある黒い大黒柱三本
これは、当時のもの。歳三がよく、お風呂上りに相撲のてっぽうをしたという。
○矢竹
外の左のほうに矢竹が植わっている。矢篠という。歳三が「将来われ武士たらん」と願って幼少の頃、植えた手植えのもの。


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■日野館編
天然理心流の道場があった所。道路に面した駐車場の右にある石碑には、ここは天然理心流の道場があった場所であるという内容が 書かれている。
中に行くともう少し大きな碑があり、これは、明治天皇が来てしばしばお休みになったところという内容のもの。
長屋門があり、その両脇に部屋があったが、その部屋に道場を作って練習させていた。残念ながら、道場は現存してはいない。
佐藤彦五郎はこの辺の大庄屋、今で言うと県知事級の名主であり、日野、多摩、町田、全部の名主の上に立つ名主である。 この彦五郎の奥さんが、歳三の次姉のノブで14歳で佐藤家に嫁してきた。歳三は実家よりも居心地が良いのか、よく 出入りしていたと言う。
また、ここには明治天皇がお見えになりお休みになった部屋がある。玄関の右手のほうの建物で、 歳三もよく来てはごろごろと昼寝をしていたらしい。 明治天皇がしばしばここへ来られて、ここの蕎麦を食べて美味しいといったとか、そこの東屋から取り寄せたお酒がたいへん 美味しいといって飲んでいただいたとか、色々な話が残っている。
江戸時代に、蜀山人という狂歌師がよくここへ来た。蜀山人という人は幕府の役人で、多摩川の河川を調べに来た時に 立ち寄り、食した蕎麦のことを書いておいたものが表装されて掛かっており、それを御覧になった天皇が、 これは面白いと言って笑った。その笑い声が聞こえたので、何か粗相をしたのかと主人が慌ててお伺いしたところ、いや、 この文章が非常におもしろいと言って、お笑いになったという。
今、その明治天皇がこられた部屋の襖や何やら、お蕎麦の蜀山人が書いた直筆の表装された物は有山家 (佐藤彦五郎の子、佐藤源之助の弟で、歳三の甥にあたる佐藤彦吉が婿に行った家)で保管されている。


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石碑の写真はこちらから
■井上源三郎 生家編
説明をしてくださった御子孫の井上様は、井上源三郎の兄で、千人隊を勤めた井上松五郎から数えて五代目に当たられる。 穏やかなお顔と物腰が印象に残る方で、源さんもこのような穏やかな表情をした人でもあったろうかと思われた。
この日は、きていただいた記念にと、可愛らしいイラストの描かれたお手製の袋にお菓子を詰めたものを一人一人に ご家族の皆様で配ってくださった。思いがけなくも嬉しい贈り物に、史跡めぐりの大切な思い出の一つとなった。
今年の暮れあたりから、家の右手にある蔵を改造して、井上源三郎資料館を造る予定だそうで、オープンの日が待ち遠しい。 その蔵は、甲州街道の向こう側にある日野という家からこちらに持ってきた蔵で、昔からこちらにあるものではないそうである。
生家は昔は藁葺きで、今現在の位置よりずっと南側の方に向かって建っていた。馬をつなぐ場所や大きい土間があり、 その土間で雨の日は近藤周助から剣術を教えてもらっていたそうで、右の方には庭があり、天気のいい日はそちらで 稽古をしたという。
日野に縁のある人物としては土方歳三、井上源三郎がまず思い出されるが、その他に沖田総司も忘れてはならない。 井上家の分家筋に当たる井上林太郎を総司の長姉ミツの婿として沖田家へ迎えている他、井上源三郎の甥で、 新選組隊士でもあった井上泰助の妹が沖田家へ嫁いでいるし、林太郎の一代くらい前にも井上家から婿にいっているようである ことなどから、沖田家は日野に縁のある家といえる。
 
○沖田キンさんの文机
源三郎生家から少し先に、とうがらし地蔵というお地蔵様があり、沖田総司もよく来てはお参りしたところだとされている。 目が悪い人はとうがらしをもってきて備えると目が直ると言われている。その右側の駐車場のところに石坂さんというお宅があり、 沖田総司の次姉キンさんの経机が残っているということで、この日は嬉しいことに、キンさんが使用したであろうと思われる机を 拝見させていただくことができた。
これは今で言うところの勉強机に当たるもの。期待と緊張でどきどきしながら目にした机は、本当に小さく、 使い込まれた感のある古めかしい机で、机自身が内包する、長い時間を経てきたもののみが持つ独特の雰囲気が 見ている私達にじんわりと伝わってきた。引き出しを開けると、引き出しの脇に総司の次姉キンの名前が「をきん女」と筆で 大きくしっかりと書かれていた。沖田の姉の名前があるのだから、これを幼い頃の総司が使って読み書きやったりしたことも あったのではないかと思われる、とのこと。
現在、この机の所有者である石坂さんのお宅に渡ったいきさつは、次のようなものだという。
沖田氏の子孫は軍人となり、その後、北海道へ渡る事になった。その為の引越しの準備で色々荷物を整理する折、 こんなものを北海道へ運んでもしょうがないから、もしお使いになられるのなら、こちらのお家へ置いていきましょうと、 置いていったのだという。
机が発見された経緯は、ある事にはある筈だがどこにあるか判らないということで、ならば新選組関係の人が 大勢いるのだから、皆に手伝ってもらって蔵を整理したらどうだ、ということでやったところ、出てきたという。

●こぼれ話 其の弐 総司の写真があったのに?事件
また、机の他にもう一つ、沖田総司の写真があったのだが、家を建て替える時に、ごみと一緒に燃してしまったのでは ないかとの事で、これは、完全に沖田総司の写真であったよう。
総司ファンならずとも、残念な思いに駆られてしまう事は否めない。しかし、ある時思いがけない場所から写真が発見! などという事も絶対有り得ない訳ではないのだから、諦めるのは気が早いだろう。
顔がわからない方がいいのか、悪いのか。何とも言えないが、皆さんはいかがだろうか。

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■八坂神社編
八坂神社は非常に古く、御神体はスサノオノミコト。拝殿にある八坂社の文字は有栖川宮二品熾仁親王が書かれた文字である。
神輿の蔵があり、この彫刻は作者名がないので判らないが、立川流という非常に立派な彫刻が施されている。 残念ながら今まで雨ざらしに近い状態にあった為、かなり傷んでいたが、最近になり補修された。
日野市在住の試衛館道場の門弟達が寄贈した額があることは広く知られているところだが、この奉納額には日野市在住の門弟の 名前が全て書かれており、彼らは全て日野市の旧家かつ財産家の人達で、今現在も全ての家が現存している。
しかし、ここに土方歳三の名前はない。これは、奉納の際にはまだ天然理心流に入門していなかった為で、奉納の翌年、 安政六年に入門している。
また、この額を奉納した時点では、近藤勇も天然理心流第四代目を受け継いでいなかった為、近藤勇ではなく島崎勇と なっている。勇は望まれて近藤家の婿養子になったが、生まれた時の姓は宮川。宮川から近藤家に婿にいった訳ではない。 宮川というのは豪農だったが、武士ではない為、婿に行けなかった。第三代目近藤周助は旧姓を島崎といい、その後、 近藤家の婿になっていたことから、勇は宮川からいったん島崎家へ婿に行き、島崎勇と名乗った後、近藤家の養子になり、 近藤勇となった。身分制度の存在した当時は、そうした手数を踏まざるをえなかったのである。
この安政五年という年は、彦根の井伊直弼が幕府の大老になり、安政の大獄で、勤皇と言われるような、幕府に反対する学者達、 吉田松陰や橋本左内など多くの人間を全部、牢にほうりこんだ年。次の年には、桜田門外で水戸の浪士に切り殺されたり、 外国からは黒船がどんどんやってくる、世の中がおかしくなっている時期であった。
天然理心流が多摩地域の武士階級ではない、町民達に浸透したのは、実践的な剣法であったことや、武士に頼らずに 自衛するしかないと彼らが感じていたからであるともいえる。そうした不安定な時に奉納された額なのである。


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■宝泉寺編
史跡めぐりの最後は、源三郎の菩提寺である宝泉寺。町の中心地から近い場所であるわりに、境内に入ると、時折鳥の声が 聞こえてくる、静けさを感じられる寺である。
この宝泉寺は大変古い寺で、昔はもう少し西の方にあったが、火事で今現在の場所へ移った。正門を西の方から入り、 直角に南に向かうと寺があるという、少し変わった寺である。
南側が丘陵である為、寺は北向きである。詳しく言うと、北東に向いている。なぜかというと西側に甲州街道があった為、 甲州街道から入るようになっており、南側に山がある関係上、北に向いていたという訳。 また、甲州街道の道路は、敵が攻めてきた時に、敵がいっぺんに攻めてこないよう、曲がり角が二つ両脇にある。
最近になって建てられた井上源三郎の石碑が静かに建っている。源三郎の墓はもっと山よりのところにあった。 山が崩れたので、こちらへ移動した。源三郎の墓も近藤勇や土方歳三の墓と同じく骨は入っていない。 慶応四年に淀の千両松というところで戦死している。当時、源三郎の甥の泰助という少年が小姓で源三郎についており、 源三郎が戦死した時、首を討ち取ったりと言われることは残念だと、首を切り自分の袖の切れに包んで刀と首を持って逃げたが、 何しろ重い。12歳からの子供にしたら重くてしょうがない。周りがそんなものは捨てろ、とお前が捕まってしまうぞ、 ということで、ある寺の門前で田んぼの中に埋めて逃げ、皆に追いついたと言われている。
この、源三郎と思しき人物が戦死するのを幕府軍の遊撃隊の隊士が目撃している。新選組の隊士が三人いて戦っていた、 大砲を撃っていたという。ところが敵が激しく打ってきたので堤の下へ降りたところを一人がやられて、腹を打ち抜かれて 即死したと。そこで、首を切って胴体を側の川へ投げ捨てたというふうに書かれており、恐らくそれが井上源三郎だろうと いわれているという。
また、ここには源三郎の兄、八王子千人同心だった井上松五郎の墓もある。


案内してくださった古谷先生が最後におっしゃったある言葉を最後に記し、史跡めぐりの締めくくりとさせていただきたい。

〜良いものはいい、悪いものは悪いと自由に意見を言える時代がやっときた。新選組もやっと浮かばれる時がきた。 あいつらがやったことはそんな悪いことじゃないじゃないか、という時代がやっときたわけで、井上源三郎も今頃は地下で ニコニコしてるんじゃないだろうか〜

・・・・その言葉を聞いた時、源さんの笑顔が見えた気がした。

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